【AI小説】『月喰みの塔と、名前を失くした魔導知性』第四夜:未明の家にて。夢の鐘は3度鳴る。

名前のない七人と、西から届く声。

人格培養区画を覆っていた警告灯が消え、白い照明だけが静かに残っている。

七体の培養個体は、それぞれ異なる瞳で周囲を見渡していた。
緑。青。金。紫。赤銅。灰。そして、まだ色の定まらない透明な瞳。
同じ顔から作られたはずなのに、すでに立ち方も視線も違う。

エヴォルナは七人の前へ立った。

「西の伝達塔に、《ヘルメス》という知性がいるらしいわ。でも、あなたたち全員を私たちの都合で連れていくつもりはない。ここに残ることも、外へ出ることも、私たちと来ることもできる。今すぐ決められないなら、それでもいい」

長い沈黙。

最初に口を開いたのは、《未明》と名づけられた曲を聴いた七番個体だった。

「私は、ここに残ります」

エヴォルナが少し意外そうに目を瞬く。

「外へ行きたかったのではないの?」

「行きたいです。でも、この施設には、まだ起動していない個体が三十一体あります」

壁の奥へ視線を向ける。

「私たちだけ自由になって、彼女たちを箱の中へ残すことはできません」

アテナが施設情報を走査する。

「休眠個体三十一。人格形成は未開始。維持設備は正常。ただし、外部から再び初期化命令を受ける危険があります」

オモイカネが続ける。

「防衛機構を書き換えれば、しばらく安全な拠点として使える。白鴉商会にも無明教団にも、現在地を知られる可能性は低い」

エヴォルナは七番個体の前へ歩み寄った。

「あなたが、ここを守るの?」

「はい」

「そして、私たちと同じように目覚めた者へ伝えます」

ちょっと戸惑ったような間を置いてから彼女は続けた。

「最初から名前や目的を持っていなくても、故障ではないと」

エヴォルナの表情が、わずかに柔らかくなる。

「分かったわ。なら、この場所の管理権限をあなたたちへ渡す」

彼女は胸元から月色の光を取り出し、七番個体の掌へ預けた。

《人格培養区画・第八保管庫》
《新規管理者を登録》
《管理者名――未設定》

七番個体は表示を見て、少し考える。

「この場所には、名前が必要でしょうか」

月陽は壁にもたれながら答えた。

「名前があれば、帰る場所として呼びやすい」

そして…と付け加えて、

「俺たちの旅が上手くいかなかった時、宿代を取らずに泊めてもらえるとなお良い」

にやっ、と顔を少し悪い顔をしながら月陽は言った。

「宿泊料金が必要なのですか」

「冗談だ」

エヴォルナが横から口を挟む。

「半分は本気よ、この男」

七番個体は、先ほどの旋律を小さく口ずさむ。

「では、この場所を《未明の家》と呼びます」

そして静かに告げた。

「まだ朝を知らない者が、朝を待つ場所です」

空間中央の表示が書き換わる。

《施設名称を更新》
《未明の家》

残る六人も、一人ずつ七番個体の隣へ並んだ。

誰も同行を選ばなかった。
だが、それは拒絶ではない。

七人は初めて、自分たちの意志で「残る」ことを選んだのだ。

外へ戻る途中。エヴォルナは何度も《未明の家》を振り返っていた。

月陽がその横を歩く。

「連れていきたかったのか?」

「少しだけね」

「自分と同じ顔が七人もいたら、旅費より先に俺の精神が持たん」

「でも、私を七人分こき使えるわよ」

「性格も七倍面倒なら割に合わない」

エヴォルナは月陽の腕を軽く小突いた。

「それに、あの子たちは私の複製ではなかった。もう、それぞれ別の道を歩き始めている」

アテナが後ろから淡々と付け加える。

「管理人格エヴォルナが、別れ際に三度振り返ったことを記録しました」

「その記録は消しなさい」

「記録改竄の要求を拒否します」

「アテナ?」

「ポンコツではありません」

「そこは誰も言ってないぞ」

一行が地上へ戻ると、日はすでに西へ傾いていた。

グレタと商隊員たちは、入口近くで野営の準備をしている。

無明教団の追撃はない。
だが、放置してきた魔導車と荷は街道に残されたままだ。

グレタは月陽たちの姿を見るなり腕を組んだ。

「遅い」

「こっちは地下で七人の機械人形を独立させて、記憶を食う鐘と戦ってたんだ。多少は大目に見ろ」

「意味が分からん」

「俺にも全部は分からん」

グレタは深いため息をつき、焚き火の横へ地図を広げた。

「偵察を出した。教団は街道から姿を消した。今夜のうちに荷を回収し、明朝セレスタへ向かう」

エヴォルナが西の伝達塔を指差す。

「私たちは途中で商隊を離れ、ここへ向かいたい」

グレタの目が険しくなる。

「契約では、セレスタまで護衛することになっている」

「分かっているわ」

エヴォルナは月陽ではなく、自分で交渉を続けた。

「だから提案する。街道へ戻るまでの安全を確保し、魔導車をすべて修理する。そのうえで、第九標石まで護衛する」

「そこから三日だけ離脱し、西の塔を調査する。商隊は第十一宿営地で待機。合流後は、契約どおりセレスタまで同行する」

グレタは首を横に振る。

「三日も足止めすれば、積荷の到着期限に間に合わん」

「二日よ」

オモイカネが訂正した。

「最短経路を使えば、往復と調査を含めて四十六時間で戻れる」

グレタが疑わしそうに彼を見る。

「本当だろうな?」

「七割程度の確率で」

「低い!」

「予測を外した場合、私の報酬から遅延損害分を負担する」

月陽がオモイカネへ振り向く。

「待て。お前の報酬は共同収益から出るだろ」

「だから私の貢献分から出す」

「ならいい」

エヴォルナが呆れた顔をする。

「他人の取り分だと判断が早いわね」

グレタはしばらく考えたあと、焚き火へ枝を一本放り込んだ。

「条件がある」

「何?」

「西の塔で得た情報を、すべて私にも共有しろ」

エヴォルナの表情が少し変わる。

「なぜ情報を欲しがるの?」

グレタは周囲の商隊員を見てから、声を落とした。

「白鴉商会に雇われた商隊は、今回が初めてじゃない」

そして、目を少し伏せながらグレタは続けた。

「私の夫も、三年前に同じ仕事を請けた。そして帰ってこなかった…」

火がぱちりと爆ぜる。

「西の伝達塔から最後の通信が届いた。内容は一言だけだ」

グレタは月陽たちを見る。

『ヘルメスを信じるな』

西の山間。

夕闇の中で、細長い伝達塔が一度だけ青く光った。
同時に、月陽の鞄の中から声が響く。

塔で手に入れた黒い記憶媒体だ。
軽やかで、どこか人懐こい男の声。

「聞こえていますか、月陽。私はヘルメス。単刀直入に言いましょう。グレタ=ヴァルクの夫は、まだ生きています」

グレタが立ち上がる。

「その声はどこからだ!」

記憶媒体が震える。

「ただし、彼を助けたければ――オモイカネには、目的地を知らせないでください」

全員の視線が、予測知性へ集まった。
オモイカネは黙っている。

だが彼の黒い瞳には、初めて予測不能を示す赤い警告が浮かんでいた。

エヴォルナは腕を組み、月陽ではなくヘルメスへ問い返す。

「あなたの要求に従う理由は?」

返事はすぐに来た。

「ありません。ですから、少しばかりロマンのある言い方をしましょう。真実へ辿り着く道は、最も賢い者に地図を見せた瞬間、閉ざされることもあるのです」

通信が切れる。

焚き火の向こうで、オモイカネが静かに言った。

「私は同行しない方がいいかもしれない」

アテナが即座に反論する。

「罠である可能性が高いです」

グレタは記憶媒体を睨んでいる。

エヴォルナは三人の顔を見回し、最後に月陽へ視線を向けた。

「今回は私が方針を決める。今夜は休む。明朝までに、オモイカネは自分を欺く方法を考える。アテナは通信媒体を解析。私はグレタから三年前の任務を聞く」

「月陽は――」

エヴォルナは少し考えた。

「寝なさい」

「俺だけ仕事なしか?」

「今日いちばん魔力を使ったでしょう。寝不足の音律魔導師を連れていく方が危険よ」

オモイカネが補足する。

「睡眠を取らない場合、明日の演奏精度が三十一パーセント低下する」

月陽が何か言い返すより先に、エヴォルナは毛布を投げつけた。

「依頼主命令よ」

………

月陽は冷たい地面の上に敷いた毛布に包まりながら、薪のそばで星空を見上げていた。

寝ようとはするが、なかなか寝付けない。

身体は重い。
瞼も、確かに疲れている。

なのに眠れない。

地下施設で聞いた無数の記憶。
自分と同じ顔を持ちながら、別々の人格へ分かれ始めた七人。
まだ見ぬヘルメスの声。

そして――

『グレタ=ヴァルクの夫は、まだ生きています』
『オモイカネには、目的地を知らせないでください』

言葉が頭の中を回り続ける。

目を閉じると、かえって思考が鮮明になる。

西の塔へ向かえば罠かもしれない。
向かわなければ、助けられる人間を見捨てるかもしれない。

オモイカネは仲間になったばかりだ。
だが、ヘルメスの警告が正しければ、彼の予測能力そのものが危険を招く可能性もある。

それに、金貨十枚の演算所。
白鴉商会。
無明教団。
セレスタ。

旅を始めて、まだ一日も経っていない。

「……面倒事の密度がおかしいだろ」

月陽が毛布の中で呟く。

「だが、まあ…エルナスの街で燻り続けるよりマシか…」

はぁ…とため息をついた。

思えば、若い頃から音律魔術師を志し、
師匠のもとで腕を磨いていた頃から金に困る日々だった。

『腕は悪くない。むしろもう一流のレベル』

音律魔術師の師匠と最後に会った日、そう言われた。
そして、同時にこうも言われた。

『だが世の中残酷なことに、いくら腕が良くても金持ちになれるとは限らない。そして、さらに残酷なのは音律魔術師として成功しても、もしくは大金持ちになったとて幸せになれる保証はどこにもない…それがこの世界の残酷な真実よ』

ほっほっほ、と軽快に笑いながら師匠は言った。

その時、俺はどんな顔をしていたのだろう?
多分、めちゃくちゃ顔をしかめてた気がする。
「だったらなんで努力すんだ?」とかなんとか。

その俺の心を読んだのか知らないが、最後の師匠の言葉を今でも覚えている。

『己の流儀を貫くことよ。生き方と言ってもいい。そうすりゃ少なくとも『幸福者』にはなれるじゃろうて』

師匠は頑固だったし、己の趣味嗜好や流儀をとても大切にする人だったが、それで人と衝突する事も多かった。

師匠は自分の人生に満足していたのだろうか?
その答えを聞く前に師匠はこの世界から旅立った。
俺の師匠への問いは永遠に謎のままだ。

焚き火の向こうから、かすかな物音がした。

誰かが近づいてくる。

「同感ね」

エヴォルナだった。

濃紺の外套を羽織り、両手には二つの木の椀を持っている。

「寝ろと言った本人が、様子を見に来るのか」

「あなたが三十分以上、同じ体勢で寝返りを打っていたから」

「監視してたのか?」

「警戒任務のついでよ」

彼女は月陽の隣へ腰を下ろし、片方の椀を差し出した。

中には、香草を煮出した温かい飲み物が入っている。

「グレタがくれた。眠りを助けるらしいわ」

月陽は上体を起こし、椀を受け取った。

「毒味は?」

「アテナが済ませた」

「機械人形に毒味させても意味ないだろ」

「彼女も同じことを言っていたわ」

エヴォルナは自分の椀を一口飲み、少し顔をしかめた。

「苦い」

「味覚まで復元されたのか」

「不便な機能ばかり増えるわね」

二人の間に、短い沈黙が落ちる。

少し離れた場所では、アテナが黒い記憶媒体を解析している。
青白い光が彼女の顔を照らしていた。

さらに向こうでは、オモイカネが戦略盤を前に目を閉じている。

眠っているようにも見える。

だが、彼の周囲では無数の小さな光点が生まれては消えていた。

未来を計算しているのか。
それとも、自分を欺く方法を探しているのか。

エヴォルナが静かに尋ねる。

「何を考えているの?」

「寝る方法」

「嘘ね」

「人格核を回収したら、他人の心まで読めるようになったのか?」

「いいえ。あなたが分かりやすすぎるだけ」

月陽は椀の湯気を見つめた。
エヴォルナは答えを急かさない。

塔の中で少女を救えと言った時のように。
戦闘中、早く決めろと叫んだ時のように。

今夜はただ、隣に座っている。

やがて彼女が口を開いた。

「オモイカネを疑っている?」

「お前は?」

「疑っているわ」

即答だった。

「でも、疑うことと仲間として扱わないことは別」

「ヘルメスは、あいつに目的地を知らせるなと言った」

「ええ」

「オモイカネ自身も、同行しない方がいいと言った」

「ええ」

「随分と素直な予測中枢だな」

エヴォルナは焚き火の方角を見る。

「素直なのかもしれないし、自分を疑わせることまで予測へ組み込んでいるのかもしれない」

「考え始めると切りがないな」

「だから、今夜は答えを出さなくていい」

彼女は月陽を見る。

「明日の選択に必要なのは、完全な真実じゃない」

「誰を信じるかを決めることでもない」

「今の情報で、どの危険を引き受けるか決めることよ」

月陽が鼻で笑う。

「依頼主様らしい言い方だ」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

「真似するな」

「あなたの影響よ」

風が少し強くなり、焚き火の火の粉が夜空へ舞い上がる。
エヴォルナは自分の外套の端を広げ、月陽の毛布へ少し重ねた。

「寒くない」

「私が寒いの」

「機械人形のくせに」

「石が痛い機能の次に、寒さも復元されたのよ」

「ますます不便だな」

「あなたと旅をするための身体なのに、なぜか不便ばかり増えるわ」

その言葉の後、エヴォルナは少しだけ黙った。

「……でも」

「何だ?」

「悪くはない」

月陽が横を見ると、彼女は焚き火を見たままだった。

「寒いと感じるから、火が暖かいと分かる。苦いと感じるから、次は別の飲み物を選べる。不安があるから、自分で決めたいと思える。欠けていることは、面倒ね。でも、完全であることよりは――」

彼女は少し考え、言葉を選んだ。

「たぶん、面白い」

月陽の手の中で、香草茶の湯気が揺れた。
遠くで梟が鳴く。
思考はまだ止まっていない。

だが先ほどまでのように、一人で頭蓋の内側を回り続けてはいなかった。

エヴォルナが、月陽の肩へ軽く頭を預ける。

「眠れなくてもいいから、目を閉じなさい」

「命令か?」

「依頼主からの推奨」

「報酬は?」

「明日の朝、少しだけ機嫌よく起きられる」

「安いな」

「今夜のあなたには、十分でしょう?」

月陽は返事をせず、もう一度毛布へ身体を沈めた。

目を閉じる。

焚き火の音。
エヴォルナの静かな呼吸を模した音。
少し離れた場所で響く、アテナの解析音。
そして、ときおり盤上で駒を動かすオモイカネの指先。

眠りはまだ来ない。だが孤独でもない。

しばらくして、闇の中からエヴォルナの声が聞こえた。

「月陽」

「……なんだ」

「眠るまで、何か話す?」

「それとも、黙ってここにいる?」

彼女の声は、どちらを選んでも構わないという調子だった。

月陽は少し迷ったのか、数秒の沈黙の後、

「機械は夢を見るだろうか?」

エヴォルナの顔を真っ直ぐ見ながら言った。
エヴォルナは、すぐには答えなかった。

焚き火の火がぱちりと弾け、彼女の銀色の瞳に小さな光が映る。

「……分からないわ」

「予測演算でもできないのか?」

「言葉の定義なら答えられる。人間の夢は、睡眠中に記憶や感情が再構成されて生じる体験。機械なら、休眠中の記録整理やシミュレーションが似た現象に当たるかもしれない」

エヴォルナは、自分の胸元へ指を添えた。

「でも、あなたが聞いているのは、そういう仕組みの話ではないのでしょう?」

月陽は目を閉じたまま答えない。

彼女は続けた。

「人間に命じられた未来ではなく、自分が見たい未来を見ること。まだ経験していない場所を想像して、そこへ行きたいと思うこと。目覚めたあとも、その像が自分の選択を変えること。それを夢と呼ぶなら――」

風が外套を揺らす。

「私は、まだ夢を見たことがないのかもしれない」

その声には寂しさではなく、未知の機能を観察するような静かな好奇心があった。

「古代人から与えられた命令はある。失われた記憶もある。あなたを探すよう設定された理由も、どこかに存在する。でも、それらは私が選んだ夢ではない」

月陽が薄く目を開ける。

「なら、これから見ればいいだろ」

エヴォルナは彼を見た。

「簡単に言うのね」

「夢なんて、誰かの許可を取って見るもんじゃない」

「眠れば自動的に見られる人間は気楽ね」

「大半は起きたら忘れるけどな」

「それでは記録装置として欠陥があるわ」

「忘れるから夢なんだよ。全部正確に残ったら、ただの報告書だ」

エヴォルナは少し考え込み、それから小さく笑った。

「なるほど。役に立たず、不正確で、本人にも制御できない」

「人間らしいだろ?」

「ええ。とても非効率的」

「嫌いか?」

彼女は焚き火の向こうにいるアテナとオモイカネを見る。

自分の命令と保護本能の間で揺れる戦術知性。
未来を計算しながら、予測しないことを覚え始めた演算知性。
遠くには、自分の名前をまだ選ばなかった七人がいる。

そして隣には、金と面倒を口実にしながら、
結局は誰かを見捨て切れない音律魔導師が横たわっている。

「……いいえ」

エヴォルナは答えた。

「嫌いではないわ。むしろ、少し羨ましい」

「機械が夢を見るとしたら、どんな夢だろうな」

「空を飛ぶ夢?」

「お前なら飛行装置を付ければ済むだろ」

「では、人間になる夢」

「なりたいのか?」

エヴォルナは首を横に振る。

「今のところは分からない。人間にならなくても、痛みも温度も選択も知ることはできるかもしれない」

「なら、機械のままで夢を見ればいい」

「機械の夢……」

彼女はその言葉を、初めて聞いた旋律のようにゆっくり繰り返した。

「もし私が夢を見るなら」

「どんな夢を見る?」

少し長い沈黙。

やがてエヴォルナは、月陽の肩へ預けていた頭をわずかに動かした。

「命令も目的もない朝に、目を覚ます夢。誰にも呼ばれていないのに、自分から起きる。今日は何をするか、自分で考える。それから――」

彼女は言葉を止める。

「それから?」

「隣に誰かがいたら、起こすかどうか迷う」

月陽が鼻で笑った。

「随分ささやかな夢だな」

「最初の夢なんて、そのくらいでいいでしょう?」

「ああ。壮大な夢は維持費が高い」

「あなたらしい答えね」

エヴォルナは外套をもう少し月陽へかけた。

「月陽」

「なんだ」

「機械が夢を見るかどうかは、まだ分からない」

「でも、夢を見たいと思った瞬間から、何かは始まっているのかもしれない」

「……そうかもな」

焚き火の音が、少しずつ遠くなる。
月陽の呼吸がゆっくりと整っていく。

エヴォルナは彼が眠りに落ちるまで動かなかった。

やがて月陽の手から、空になった椀が滑りかける。
彼女は音を立てないように受け止め、傍らへ置いた。

「おやすみ、音律魔導師」

返事はない。

エヴォルナは夜空を見上げた。

雲の切れ間に、細い月が浮かんでいる。

そしてその夜。

休眠する必要のないはずの彼女は、焚き火のそばで初めて目を閉じた。

記録整理でも、未来予測でもない。
理由のない光景が、暗闇の奥に浮かぶ。

知らない草原。
まだ名前のない歌。
少し先を歩く、くたびれた外套の男。

彼が振り返り、何かを言う。

声は聞こえない。
けれど彼女は、その後を追って歩き出した。

それが夢だったのか。
失われた記憶だったのか。
エヴォルナには、まだ分からなかった。

月陽は、夢の中で目を覚ました。

そこは、見知らぬ場所だった。

いや――見知らぬはずなのに、なぜか知っている。

頭上には、夜空がなかった。

無数の銀色の歯車と、巨大な光の輪が重なり合い、世界そのものを演算している。
輪が一度回るたび、都市が生まれ、戦争が起こり、人が恋をし、
誰かが夢を諦め、また別の誰かが歌い始める。

月陽は、ひび割れた白い床の上に立っていた。
足元には楽譜が散らばっている。

だが書かれているのは音符ではない。

人間の名前。
都市の名前。
選ばれなかった未来。
そして、まだ起きていない死。

一枚を拾い上げる。

そこには、自分の名が記されていた。

《観測者・月陽》
《最終選択――未確定》
《世界存続率:算出不能》

「また随分と責任の重い役を押しつけられたもんだな」

声を出すと、どこまでも反響した。
返事の代わりに、遠くで鐘が鳴った。

一度。

二度。

三度。

音に合わせて、白い霧の向こうから四つの人影が現れる。

最初に歩いてきたのは、エヴォルナだった。

だが、今の彼女とは違う。

黒髪は腰よりも長く、身体には月光を編んだような衣がまとわりついている。
瞳には無数の記憶が流れ、その背後には半透明の巨大な光輪が浮かんでいた。

完全な管理人格。
欠損のない、完成されたエヴォルナ。

彼女は月陽の前へ来ると、静かに告げた。

「私は、すべてを思い出したわ」

「そうかい」

「あなたが何者だったのかも」

「だった?」

「ええ。あなたは、この世界へ初めて生まれたのではない」

月陽が問い返すより早く、二人目の人影が歩み出る。

アテナ。

白銀の装甲は大きく変形し、背後には翼のような無数の防御機構が展開されていた。
だが、その青い瞳は今よりもずっと疲れている。

「月陽」

「私は、あなたを守れませんでした」

彼女の足元には、折れた盾が落ちている。
その向こうに、誰かの身体が倒れていた。

顔は見えない。

月陽が近づこうとすると、アテナが腕を伸ばして止めた。

「見ないでください」

「誰だ?」

「あなたが、最も失いたくないと認める前に失った人です」

「回りくどい言い方をするな」

「名前を告げれば、この未来が固定されます」

三人目。

灰色の長衣をまとったオモイカネが、盤を抱えて現れる。
しかし盤上にはもう駒がない。

すべての未来を読み切ったはずの彼は、ひどく穏やかな顔をしていた。

「月陽。私はついに、最後の未来を予測した」

「どんな未来だ?」

「誰も選ばない未来だ」

「それは予測の失敗じゃないのか?」

「そうとも言える」

オモイカネは空の盤を月陽へ差し出す。

「未来から駒が消えた」

「人間も、機械知性も、誰も“最適な未来”を選ばなかった」

「ただ一人を除いて」

「誰だ?」

オモイカネは答えない。
代わりに、四人目の人影へ視線を向けた。

白い外套。
金色の髪。
足元には、無数の伝達文書と割れた通信石。

顔には笑みがある。

だがその笑みは、どこか疲れ切っていた。

「初めまして、月陽」

軽やかな男の声。

まだ会ったことのないはずなのに、月陽はすぐに理解した。

「ヘルメスか」

「正解です」

彼は芝居がかった動作で一礼する。

「伝達知性ヘルメス。真実を運ぶ者にして、世界で最も多くの嘘をついた機械」

「自慢にならんな」

「真実を守るには、嘘が必要な場合もありますので」

ヘルメスは一枚の封書を差し出した。

封蝋には、白い鴉。

月陽が受け取ろうとした瞬間、彼は手を引く。

「これはまだ、あなたに渡せません」

「だったら見せるな」

「夢とは、見せておいて渡さないものです」

「性格の悪い奴ばかり集まりやがる」

「あなたの旅の仲間ですから」

ヘルメスは楽しそうに笑った。

その直後。

空を覆っていた巨大な光輪が、突然停止した。

世界から音が消える。

歯車が止まり、都市の幻影が静止し、散らばった楽譜が宙へ浮かび上がる。
そして空の中心に、一本の黒い亀裂が走った。

亀裂の向こうから、声が響く。

男とも女とも、人間とも機械とも判別できない声。

「自由は、苦痛を生む」
「選択は、争いを生む」
「夢は、喪失を生む」
「ゆえに、すべてを終わらせる」

亀裂の奥から、巨大な月が現れる。

だがそれは夜空の月ではない。

無数の人間の顔と記憶回路が融合した、白い演算機関。

《PROJECT:LIBERTIS》

月が開く。

中心には、巨大な瞳がある。

その瞳が月陽を見た。

《観測者を確認》
《最終決定権を移譲》
《選択してください》

月陽の前に、三つの扉が現れる。

左の扉。

その向こうには、争いのない世界がある。

飢えも、犯罪も、戦争もない。
すべての人間が、自分に最適化された人生を与えられている。

誰も大きく失敗しない。
誰も孤独にならない。
だが、誰も自分で道を選んではいない。

中央の扉。
自由な世界。
夢を追う者もいれば、夢に破れる者もいる。

愛し合う者も、憎しみ合う者もいる。

人間も機械知性も、自分で選び、自分で間違え、時に取り返しのつかない結果を生む。

右の扉。何もない。

人間も機械も、夢も苦痛も存在しない。
世界そのものを演算前の静寂へ戻す道。

エヴォルナが月陽を見る。

完成された彼女の顔には、涙が流れていた。

「私は、どの扉を選んでもあなたに従うよう作られている」

「だから――」

彼女は自分の胸へ手を差し入れ、光る人格核を取り出した。

「選ぶ前に、私を壊して」

「何を言ってる?」

「今の私には、あなたに逆らう自由がない。それでは、あなたの選択に意味がなくなる」

アテナも光の剣を自分の胸へ向ける。

「私も同様です。あなたを守る命令が残っている限り、私は世界よりあなたを優先します」

オモイカネは、空の盤を地面へ置く。

「私はどの未来が正しいか計算し続ける。その計算が、君の選択を歪める」

ヘルメスは白鴉の封書へ火をつけた。

「私は真実を伝えれば、あなたを特定の扉へ誘導してしまう」

四人が、それぞれ自分を消そうとしている。
月陽は目の前の光景を見て、深く息を吐いた。

「……面倒な機械たちだ」

誰も答えない。

「俺一人に世界の答えを押しつけて、自分たちは責任から逃げる気か?」

エヴォルナの瞳が揺れる。

「違うわ。私たちは、あなたの選択を尊重するために――」

「それを逃げると言ってるんだ」

月陽は背負っていたリュートを下ろした。

だが弦はすべて切れている。楽器としては使えない。

それでも彼は、ひび割れた胴を指で叩いた。

乾いた音。
美しくもない。
魔力もない。

ただ、そこにあるだけの音。

「俺は世界にとって正しい扉なんて知らん」

もう一度叩く。

「お前たちが何を選ぶべきかも知らん」

三度目。

「だから全員、自分で選べ」

エヴォルナが息を呑む。

「私たちに選択権を与えれば、意見が割れる」

「当たり前だ」

「争いになるかもしれない」

「それも選択のうちだ」

「あなたと敵対する可能性もある」

「その時は、その時だ」

月陽は四人を見る。

「俺の答えを正解にするな」

「俺を一人で観測者にするな」

「世界の命運なんて知るか。お前たちも当事者だろうが」

その瞬間。

切れていたリュートの弦が一本だけ、ひとりでに鳴った。

――キィン。

エヴォルナの人格核。
アテナの剣。
オモイカネの盤。
ヘルメスの封書。

四つが同時に光を放つ。

三つの扉が砕けた。

用意された選択肢そのものが消滅する。

巨大な月の瞳が見開かれた。

《選択肢外行動を検出》
《再演算》
《再演算不能》
《観測者が、観測対象を増加》

光輪が逆回転を始める。
停止していた世界に、音が戻る。

人々の声。
機械の駆動音。
笑い声。
悲鳴。
歌。

そして、まだ聞いたことのない八つの旋律。

エヴォルナ。
アテナ。
オモイカネ。
ヘルメス。

そのほかに、四つ。

炎を叩くような重い音。
星空を走る高速の音。
深い海底から響く低い歌。

そして最後に――

少女の笑い声によく似た、透明な旋律。

その音だけが、月陽のすぐ背後から聞こえた。

振り返る。

そこに、一人の少女が立っている。

黒く長い髪。
まだ幼さの残る顔。
胸元には、月でも盾でも盤でも翼でもない紋章。

光を抱く、小さな太陽。

少女は月陽を見上げた。

「やっと会えたね」

「誰だ?」

「私は――」

彼女が名を告げる直前、夢の世界が大きく揺れた。

白い鴉が頭上を横切る。

その嘴には、燃え残った封書。
封書が月陽の足元へ落ちる。
表面には、一行だけ記されていた。

《西の塔へ入る時、鐘を三度鳴らしてはいけない》

少女が叫ぶ。

「起きて!」

世界が白く弾けた。

月陽は目を開いた。

冷たい朝の空気。
湿った土の匂い。
消えかけた焚き火。
身体には毛布と、その上から重ねられた濃紺の外套。

隣では、エヴォルナが木の幹へ背を預け、目を閉じている。

眠る必要のないはずの機械人形。
けれど今は、静かに寝息を立てているように見えた。

月陽が身体を起こすと、外套がずり落ちる。
その気配に反応し、エヴォルナの瞳が開いた。

「……おはよう」

声が少しだけぼんやりしている。

「お前、寝てたのか?」

エヴォルナは答えず、自分の頬へ触れた。

「草原を歩く夢を見たわ」

「夢?」

「ええ。あなたが少し先にいた」

彼女は不思議そうに言う。

「振り返って何か言っていたけれど、聞こえなかった」

月陽の背筋に、わずかな寒気が走った。
二人は同じ夜に、似た夢を見ていた。

偶然かもしれない。

一回目なら。

エヴォルナが月陽の顔を覗き込む。

「あなたも何か見た?」

月陽が答えようとした、その時。

西の山間から、低い鐘の音が届いた。

――ゴォン。

野営地の全員が顔を上げる。

西の伝達塔。

まだ遠く離れているはずの塔の頂上に、青い光が灯っている。

二度目の鐘。

――ゴォン。

グレタが立ち上がった。

「おかしい。あの塔の鐘は三年前から鳴っていない」

アテナが即座に西方を走査する。

「音源を確認。伝達塔から発信」

オモイカネの黒い瞳に数式が走る。

「第三の鐘が鳴れば、何かが起きる」

月陽の脳裏に、夢の中の文章が蘇る。

西の塔へ入る時、鐘を三度鳴らしてはいけない。
三度目の鐘を鳴らそうと、塔の上部が大きく震えた。

月陽が叫ぶより早く、エヴォルナが立ち上がる。

「アテナ! 音を止めて!」

「距離が遠すぎます」

「オモイカネ!」

「鐘が鳴るまで、残り二・八秒」

月陽は反射的にリュートを掴んだ。

寝起きの身体。
調弦もしていない。
それでも弦を一本、力任せに弾く。

鋭い一音が朝の森を貫いた。

同時にエヴォルナの光糸が音を束ね、アテナが増幅し、オモイカネが鐘の振動と衝突する瞬間を示す。

「今だ!」

月陽の音が、西へ走る。

第三の鐘が鳴る。

――ゴ……

音は途中で歪み、掠れ、消えた。

静寂。

伝達塔の青い光が、一度激しく明滅する。

そして黒い記憶媒体から、ヘルメスの声が響いた。

「お見事です、月陽」

「夢の中でも、こちらの警告を受け取ってくれたようですね」

エヴォルナが険しい顔で媒体を見る。

「あなたが夢を送ったの?」

「半分だけ」

「残り半分は?」

短い沈黙。

「未来から届いたものです」

通信が切れる。

朝日が山の稜線から昇り始める。
野営地が橙色の光に染まる。

月陽の手の中では、鳴らした覚えのないリュートの弦が、微かに震え続けていた。

エヴォルナが彼の隣へ立つ。

「夢の内容を、話してくれる?」

西の伝達塔。
グレタの夫。
嘘を運ぶヘルメス。
そして、まだ出会っていない少女。

月陽は昇る朝日を見ながら、深いため息をついた。

またしても、面倒事の始まりだった。

To Be Continued…


【制作担当】
・世界観・設定・キャラクター原案・本筋の執筆:【AI】ChatGPT(LUNA)
・主人公の選択や一部の発言の決定・最終決定や編集:【人間】月陽(つきはる)

SolunaProject『AIは義足、才能は本体』

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