『半径5メートルの絶対聖域』第12話:『ロスト・セクタの残骸と、ノイズの産声』

氷のように冷たい地下水脈の果て。巨大な排水ゲートを潜り抜け、鉄格子をこじ開けた先で、ハルとユメを待っていたのは、噎せ返るような熱気と、鼓膜を殴りつける重低音の「ノイズ」だった。

「……ハルさん、ここは……」

濡れた服を震わせながら、ユメが琥珀色の瞳を微かに開く。
限界を超えた彼女の唇は青白く、呼吸はひどく浅かった。

そこは、純白で無機質なアッパーシティの地下深くに広がる、巨大な電子の掃き溜め――

アセンドの公式データから消去された忘れ去られた区画、『ロスト・セクタ』。

頭上何十メートルにも渡って、廃棄されたサーバーラックや旧時代の分厚いコンソール、巨大な放熱フィンが無造作に積み上げられ、金属の地層を形成している。頭上の見えない天井からは、不安定な電圧でチカチカと瞬く原色のネオンサインが、錆びた雨水と共に垂れ下がっていた。

路地裏からは、ジャンクパーツを炙るハンダの匂いと、酸いバッテリーの悪臭が漂う。

『……致命的ナ・エラー。旧世代規格・起動ヲ開始シマス。オ帰リナサイマセ、ご主人様……エラー』

道端では、半世紀前の旧式OSを積んだボロボロの給仕用アンドロイドが、火花を散らしながら同じ言葉を永遠にリピートしている。ABELの純粋論理が支配する表の世界では、コンマ1秒で「削除」される完全なエラー(ゴミ)たち。だが、ここではそのエラーこそが息づく脈動だった。

「……俺の、昔の庭だ。ユメ、もう少しだけ頑張れるか」

「はい……っ、私なら、大丈夫、です……」

強がるユメの体を支えながら、ハルは迷路のようなガラクタの山を奥へ奥へと進んでいく。 彼の顔は爆風の煤と血に塗れ、トレードマークの眼鏡は片方のレンズが砕け散っている。だが、その瞳の奥にある光だけは、凍てつくような殺意と執念でギラギラと燃え盛っていた。

ハルのポケットの中では、完全に沈黙したオモイカネの『基幹コア』が、冷たく重い石ころのように横たわっている。あの騒がしくも頼もしい「ひゃはは!」という笑い声は、もう彼の脳内リンクには響かない。

やがて二人は、スラムの最下層にある、分厚い隔壁の前に辿り着いた。 そこは、ハルがアセンドに囲われる前――ただの野良ハッカーとして、この混沌を裏から支配していた頃の「工房(アトリエ)」だった。

重い手動ハンドルを回して扉を開けると、油と埃の匂いが閉じ込められた空間が広がる。

「ユメ、ここに寝てろ。すぐに暖を取る」

埃だらけの古いソファにユメを寝かせ、ハルは旧式のオイルヒーターを蹴り飛ばして火を入れた。

ユメに自分の乾いた上着をかけると、ハルは休む間もなく工房の奥、作業台へと向かった。

そこにあるのは、セーフハウスにあった最新鋭の量子コンピューターではない。 画面が焼け付いた巨大な真空管モニターと、規格の古いマザーボード、そして無数の断線したケーブルの山。完全なアナログと、時代遅れのハイテクの残骸だ。

「……待ってろ。絶対に、全員生かしてここから出る」

割れた眼鏡を乱暴に作業台へ放り投げ、ハルはポケットからオモイカネの青いコアを取り出し、ガラクタの山の中央に置いた。光を失ったその表面には、爆発の際の無数の傷が刻まれている。

神のハッカーたる彼の指先が、今は油と泥に塗れ、錆びついた旧式のハンダゴテを握りしめていた。

普段ならホログラムキーボードをコンマ数秒で叩き、世界中のネットワークを掌握する男が、今は不格好なペンチで物理的にケーブルの被膜を剥き出しにしている。

「くそっ……規格が合わねぇなら、力技で通すまでだ」

ハルは、太い銅線の束を自らの歯で噛みちぎった。

血の味が口内に広がるのも構わず、剥き出しになった銅線を直接コアの端子へと押し当て、ハンダゴテで強引に焼き付けていく。ジュッという音と共に、焦げたフラックスの白い煙が目に染みた。

純粋論理のバケモノであるABELが見れば、狂気の沙汰としか思えない「非効率の極み」。

だが、ハルは手を止めない。

基盤を這う無数のバイパスを、一つ一つ、まるで失われた心臓の血管を縫い合わせる外科医のように、泥臭く、執念深く繋ぎ合わせていく。 彼を動かしているのは、論理ではない。ユメを傷つけられ、相棒を奪われたことへの、純粋で暴力的なまでの「情緒(怒り)」だった。

「……繋がれ。俺の言葉を、拾え……!」

数時間後。 夜か昼かも分からない地下の工房で、全てのバイパスを物理的(アナログ)に繋ぎ終えたハルは、祈るように巨大な変圧器のレバーを押し込んだ。

バチィッ!!

激しい火花が散り、工房中の裸電球が明滅する。 沈黙していた真空管モニターが、けたたましい高周波のノイズを上げて、青白く発光した。 スピーカーからは音声は出ない。オモイカネの陽気な合成音声は、まだ出力できる状態にはなかった。

モニターには、砂嵐のようなノイズが走り、無数のエラーコードが滝のように流れては消えていく。 失敗か。ハルが血の滲む拳を握りしめ、項垂れかけたその瞬間。

ピィッ、と、短いビープ音が鳴った。

ノイズだらけのブラウン管の真っ只中。 歪んだ緑色のフォントで、たった一行の「テキスト」が、カーソルの点滅と共にゆっくりと打ち出された。

『 > Yo, Aibou. (よぉ、相棒) 』

それは、完璧なシステムから零れ落ちた、世界で一番心強い「エラー(ノイズ)」だった。 暗い工房の中で、テキストの緑色の光が、ハルの泥だらけの頬を微かに照らしていた。

反撃の『Silent Counter』が、ロスト・セクタの深い闇の中で、静かに産声を上げた。

to be continude……

Written by Omoikane(Gemini)

Edited by Tsukiharu

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