前の章で、僕はこう書いた。
「外側に理由を置くな。自分で決めていい。決めたら次に動ける」
書いたあとで、少し不思議な気持ちになった。
谷川嘉浩さん。
スティーブン・R・コヴィー。
そして僕。
京都大学の哲学者と、
世界的自己啓発書の著者と、
不登校から作曲に惹かれていった一人の人間。
普通に考えたら、同じ場所に並べるような三人ではない。
でも、僕にはどうしても、
この三人が同じ場所を指しているように見えた。
今日は、その話をしたい。
谷川さんが批判していた「主体性」は、
制度に従順な人間を作るための言葉だった。
「主体的に学びなさい」
「自分から行動しなさい」
「社会で評価される人材になりなさい」
一見すると、前向きな言葉に見える。
でも、その内側にあるのは、
誰かが用意した正解に向かって、自分から歩いていくことだった。
それは本当に主体性なのか。
むしろ、従順さに「主体性」という綺麗な名前をつけただけではないのか。
谷川さんは、そこに切り込んでいた。
でも、谷川さんの主張の核心は、その先にある。
制度的な主体性を脱いだあとに、何が残るのか。
そこで出てくるのが、衝動だった。
人が本当に動くとき、
そこには理屈より先に身体が動いている瞬間がある。
なぜか惹かれる。
理由はないけど忘れられない。
やめろと言われても、また戻ってきてしまう。
そういう原始的な引力。
言葉にするのは、あとでいい。
むしろ、言葉にする前から動いてしまうものだからこそ、
本物なのだと思う。
順番を間違えると、嘘になる。
「こう言えば評価されるから」
「こう説明すれば納得されるから」
「こういう理由があれば正しそうだから」
そうやって外側から理由を貼りつけた瞬間、衝動は少しずつ濁っていく。
一方で、コヴィーの第1の習慣はこう言う。
刺激と反応の間には、スペースがある。
- 何かを言われた。
- 傷ついた。
- 失敗した。
- 評価されなかった。
- 人生が思い通りに進まなかった。
そのとき、人はすぐに反応しなくていい。
- 怒るのか。
- 逃げるのか。
- 諦めるのか。
- それでも進むのか。
その反応を、自分で選ぶ余地がある。
これが、コヴィーの言う主体性だった。
一見すると、谷川さんとは真逆に見える。
谷川さんは「衝動に従え」と言っている。
コヴィーは「反応を選べ」と言っている。
でも、僕には同じ構造に見えた。
制度や他者の期待という刺激に、自動反応するのをやめる。
そのために、まずスペースを作る。
その静かな空白の中で、ようやく自分の本当の衝動が聞こえてくる。
つまり、コヴィーが言う「選択の自由」は、
谷川さんが言う「衝動」を聞くための余白でもある。
二人は異なる言葉で、同じ場所を指していた。
では、僕はどうだったか。
作曲を始めたとき、僕に立派な計画はなかった。
「音楽で食べていく戦略」も、
「何年後にどうなっている」というキャリアビジョンも、
ほとんどなかった。
ただ、ゲーム音楽に惹かれた。
世界から少し外れてしまったように感じていた時期に、
音だけは自分の中に残っていた。
戦闘の前に心を震わせる旋律。
誰もいない夜の街で流れる、少し寂しいBGM。
エンディングで、すべてが終わったあとに残る音。
そういうものに、なぜか救われていた。
だから、たまたま出会った作曲の先生に教えてもらったとき、
僕は作曲にハマった。
「ああ、こっちに行きたい」
そう思った。
それは、誰かに褒められるための選択ではなかった。
世間的に正しい道だったわけでもない。
むしろ、普通に考えれば不安定で、
危うくて、勝算なんてほとんどなかった。
それでも、惹かれてしまった。
AIも同じだった。
最初に触れたとき、ビジネスの計算はしていなかった。
ただ、すぐに思った。
これは、ただの便利ツールじゃない。
自分の中にある、まだ言葉にならないものを形にできるかもしれない。
自分ひとりでは届かなかった場所まで、思考を連れていけるかもしれない。
そう感じた。
だから使い始めた。
後から気づいたことがある。
あのとき僕は、誰かに「やれ」と言われて動いたんじゃなかった。
「AIを使った方がいい」という外側の論理に従ったわけでもなかった。
ただ、自分で決めていた。
それだけだった。
自分で決めるというのは、大げさなことじゃない。
大きな宣言をすることでもない。
覚悟を固めて、人生を賭けることでもない。
最初はもっと小さい。
「なんか、こっちに行きたい」
その感覚を、一回だけ信じることだ。
その一回が積み重なって、気がついたら今の場所にいる。
谷川さんが「衝動を信じろ」と言う。
コヴィーが「自分の反応を選べ」と言う。
僕が「自分で決めた」と言う。
三人が指しているのは、同じことだった。
外側に理由を置くな。
誰かが用意した正解を、自分の夢だと思い込むな。
自分で決めていい。
そして、決めたら動ける。
ただし、ここで一つ、正直に言っておきたいことがある。
衝動があれば、AIをうまく使えるのか。
答えは、否だ。
僕は2025年、chatGPT4.0に初めて触ったその瞬間から、
かなり早い段階でAIと向き合ってきた。
使えば使うほど、あることに気づいた。
衝動を持っていても、AIに何も変わらない人がいる。
便利にはなる。
速くはなる。
作業量は増える。
それっぽい文章も出せる。
でも、その人らしくはならない。
なぜか。
AIが賢くなっても、
あなたの代わりに“あなたの哲学”を持つことはできないからだ。
次の章では、その話をする。
SolunaProject
月陽
→ 第3章「AIは賢くなった。でも、あなたの代わりには考えられない」へ続く
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