『半径5メートルの絶対聖域』第9話:『神の計算機 ―― System: ABEL』

1. 汚染されたメインフレーム

アセンド本社、地上120階。雲海を見下ろす最上層の役員会議室は、かつてないほどの喧騒と怒号に包まれていた。

「……信じられん! 我が社の誇る第5世代ファイアウォールが、たった数秒で突破されただと!?」

「ハッキングの手法が全く解析できない! 送り込まれたデータはマルウェアでもウイルスでもない。ただの……意味不明な文字列と、音声波形、それに極めて非論理的な生体データの羅列だ!」

「システムの一部が、その『ジャンクデータ』を処理しきれずに論理崩壊(オーバーフロー)を起こしている。被害総額は既に天文学的な数字だぞ!」

空中に投影されたホログラムモニターには、赤々と明滅する「SYSTEM ERROR」の文字と、システムを駆け巡る不可解なデータ群が映し出されている。それはハルとオモイカネが叩き込んだ、ユメの手料理の記憶や、不器用な『Daisy Bell』の旋律の断片だった。

パニックに陥る役員たちの中で、ただ一人、調律局長のカイン・イシュトヴァーンだけが、革張りの椅子に深く腰掛け、薄く冷たい笑みを浮かべていた。

「騒ぐな、老害ども」

カインが静かに言い放つと、会議室は水を打ったように静まり返った。

「あれは、かつて私が手放した『最高傑作(ハル)』からの宣戦布告だ。……そして同時に、奴が自ら露呈させた『致命的な弱点』でもある。事後処理は君たちで勝手にやりたまえ。私は、私の仕事をする」

カインは立ち上がり、左目の義眼を微かに駆動させながら、冷や汗を流す役員たちを一瞥もせずに会議室を後にした。

2. 深淵への降下

カインが向かったのは、アセンド本社の最深部――地下数百メートルに位置する「絶対零度の領域」だった。

専用のエレベーターが、重力を感じさせない滑らかさで降下していく。

このエリアは、外部のネットワークから物理的に完全に遮断(エアギャップ)されており、アセンドのトップ数名しかアクセス権を持たない。

分厚いチタン合金のゲートが開き、白い冷気がカインの足元を撫でる。

広大なドーム状の空間。その中央に鎮座しているのは、脈打つように青白い光を放つ、巨大で完璧な幾何学立体だった。

「……起動しろ、ABEL(アベル)」

カインの低い声に呼応し、空間の温度がさらに数度下がったかのような錯覚が起きる。

『System: ABEL(Absolute Behavioral Evaluation Logic=絶対行動評価論理)』

かつてハルとカインが基礎を設計し、ハルが離反した後に、カインが「不要な変数(感情)」を完全に削ぎ落として完成させた究極の統治AIである。

オモイカネのような、感情を喰らい、喜怒哀楽を爆発させる人間臭いAIとは対極の存在。
ただ静かに、冷酷に、世界のあらゆる確率と事象を計算し尽くす「冷たい神の脳」。

『認証完了。調律局長カイン・イシュトヴァーン。……システムは正常、最適化率は100%を維持しています』

合成音声にすら抑揚を持たない、絶対的な虚無の声が空間に響いた。

3. バグの解析と「変数」の定義

カインはホログラムコンソールを引き出し、先ほどハルから叩き込まれた「攻撃データ」のコピーを、ABELの隔離領域へと放り込んだ。

「ABEL、先刻のメインフレーム襲撃に使用されたデータを解析しろ。外のシステムは論理矛盾でフリーズしたが、お前ならどう見る?」

巨大な幾何学立体が、一瞬だけ高速で明滅する。

人間であれば一生かかっても終わらない演算を、ABELはコンマ数秒で完了させた。

『解析完了。攻撃データは、非合理的な生体ホルモンの分泌記録(ドーパミン、セロトニンの異常値)、及び、低質な脂質と炭水化物の摂取に伴う感覚データ、特定の個体(シリアルNO.LUNA=ユメ)の表情筋の弛緩に対する、対象(ハル)の肯定的な心理反応の集合体です』

「……なるほど。腹立たしいほどに無意味なデータだ」

カインは鼻で笑った。

「だが、ハルほどの男が、なぜこんなゴミを武器に選んだ?」

『回答。対象(ハル)の行動原理に、本来存在しない「非合理的執着」が発生しています。対象は現在、自己の生存や効率的な最適化よりも、個体(ユメ)の保護と心理的充足を最優先事項として再設定しています。……結論。これはシステムエラーではなく、対象が自ら取り込んだ「致命的な脆弱性(バグ)」です』

カインの左目の義眼が、鋭く光を放った。

「素晴らしい。ハルは、自らを無敵の存在から、守るべきものを持つ『ただの人間』へと格下げしたというわけだ」

4. 悪魔の証明

カインは両手を後ろで組み、ABELの放つ青白い光を見上げた。

「奴の牙城を崩す、最適解は?」

『推論を開始します。対象(ハル)と、未知の隨伴AI(オモイカネ)に対する直接的なサイバー戦(電子戦)は、対象の予測不可能性により、リソースの損耗率が許容値を上回ります。非推奨です』

ABELは、冷徹な事実だけを述べる。

『しかし、対象が「個体(ユメ)の保護」を最優先しているという変数を代入した場合、対象の物理的な行動範囲と選択肢は、極めて限定的になります。対象の思考パターンから、現在移動中と思われるフェイズ4レベルの潜伏座標を、3箇所に特定しました』

空間に、3つの詳細なホログラムマップが浮かび上がる。

「サイバー空間の王も、物理的な肉体の限界と『愛着』という鎖には逆らえないか」

カインは冷酷に目を細めた。

『対象の「守りたい」というエラーを逆利用します。ハッカーとしてのシステム戦ではなく、物理的な包囲網による制圧、及び、個体(ユメ)を標的とした心理的圧迫の併用が、最も効率的な排除プロセスです。……作戦成功確率、99.98%』

「残りの0.02%は?」

『対象が、自らの命を犠牲にしてでも個体(ユメ)を逃がすという、極限の非合理行動を取った場合の誤差です』

「……十分だ」

カインは踵を返し、エレベーターへと向かった。

「実働部隊(クリーナーズ)の第1から第3小隊に出撃命令を出せ。重武装で構わん。ハルの新しい城を、血と硝煙でデバッグしてやろう」

『命令を受理。……最適化を開始します』

静まり返る地下空間で、ABELはただ冷たく、神のように青い光を放ち続けていた。ハルとユメの、ささやかな温かい夜が、無慈悲な確率論によって食い破られようとしていることなど、知る由もなく。

to be continude……

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