1. 鮮やかなる痕跡隠滅
アセンド本局の基幹サーバーに特大のバックドアを穿ち、カインの義眼越しに宣戦布告を叩きつけた直後。
アジトの空気は、焼け焦げたオゾンのような匂いと異常な熱気に包まれていた。
「……追跡プログラムは撒いたが、物理座標が割れるのは時間の問題だ。
アセンドの『掃除屋』が重武装で乗り込んでくる前に、ここを捨てる」
ハルは一切の躊躇なく、愛用していたメインコンソールの物理ドライブをチタン製のツールで叩き割った。
火花が散り、貴重なデータが物理的に沈黙していく。
『ヒャハハ! 潔いねぇ相棒! コアデータと俺の本体(メインプロセス)は、すでに暗号化してオフラインストレージに避難済みだぜ。置き土産に、ドアを開けたらカインの恥ずかしいポエムが爆音で流れるウイルスでも仕込んどくか?』
「ふん……くだらん。だが採用だ。5分遅延でセットしろ。行くぞ、ユメ」
ハルが促すと、ユメは小さく頷き、最低限の荷物が入ったボストンバッグを抱きしめた。
三ヶ月間、二人が世界の網目から逃れ、
静かに「食事」を共にした空間。ユメは名残惜しそうにキッチンを一瞥すると、
ハルの背中を追って冷たい夜の闇へと足を踏み出した。
ハルの用意した逃走車両は、電波吸収塗料で覆われた漆黒のステルスEVだった。
静寂の中、車は雨に濡れたサイバーシティの最下層(アンダーセクター)へと滑り出していく。
2. 雨とネオンと、記憶の片隅
車内は静まり返っていた。 フロントガラスを打ち付ける雨粒が、外の冷たいブルーやマゼンタのネオンを乱反射させている。 ハルはハンドルを握りながら、フロントガラスに投影されたHUD(ヘッドアップディスプレイ)で、フェイズ4の軍事レベル・セーフハウスまでのダミー経路を幾重にも計算していた。
警戒を緩めないハルに対し、助手席のユメは窓の外を流れる景色をどこか懐かしそうに見つめていた。
この辺りは、アセンドの廃棄場から這い出し、自分の名前も存在理由も分からず、ただ「エラー」として放浪していた頃によく歩いていた区画だった。 冷たい雨をしのぐために蹲った路地裏。日雇いの清掃作業で手に入れた、僅かな電子クレジット。
その時、雨霞の向こうに、古びて油にまみれたネオンサインが瞬いているのが見えた。
『GRIZZLY BURGER(グリズリー・バーガー)』
「e」の文字がショートして消えかかっている、時代遅れのダイナー。
「あっ……!」
ユメの瞳に、パッと琥珀色の光が灯った。彼女は思わず身を乗り出し、窓ガラスに両手をつく。
「ハルさん、あのお店! 私、あの看板知ってます!」
3. 最強のハッカー、論理を見失う
ハルは周囲の警戒レベルを落とさぬまま、路地裏の暗がりに車を停めた。
「ユメ、今は移動中だ。アセンドの包囲網が――」
「私、日雇いの仕事で少しだけお金が入った時、あそこで一番安いハンバーガーを食べるのが夢みたいに嬉しかったんです。……行きましょ、ハルさん!」
振り返ったユメの顔は、かつてないほどの満面の笑顔だった。
ハルは眉間を深く揉み込み、極めて冷静なトーンで諭しにかかる。
「いいか、ユメ。ハンバーガーというのは、劣化した脂質と精製された糖質の塊だ。ビタミンも食物繊維も皆無であり、血糖値の乱高下を引き起こす。長期的な脳のパフォーマンスの低下を招く、最も非効率な食物の代表格だぞ。それに――」
「月に一回くらいなら大丈夫ってお医者さんも言ってますよ! 本当におすすめのお店なんです! ね?」
論理的完全敗北。 ハルがどれだけ世界のシステムをハッキングできようとも、ユメの純粋な「幸せの記憶」と、その期待に満ちた上目遣いの前では、どんなファイアウォールも無力だった。
換気扇から漂ってくる、焦げた肉と甘辛いソースの暴力的な匂いが、さらにハルの抗弁を封殺する。
「……15分。15分でここを出るぞ」
「はいっ!」
4. メニューボードという名の脅威
カウベルを鳴らして店内に入ると、そこは古き良き(そして少し不衛生な)アメリカンダイナーの空気が充満していた。 壁には色褪せたポスター、座席は赤いビニールレザー。そして、レジの上には巨大な写真付きのメニューボードが掲げられている。
ユメは慣れた様子で、迷いなく注文を決めた。
「私、クラシックバーガーをお願いします!」
「……俺は」
ハルはメニューボードを見上げ、完全にフリーズしていた。
彼の視界(と脳内の演算回路)は、提示されたメニューの「栄養素のバグ」に警報を鳴らし続けていたのだ。
(『ダブルチェダー・マキシマム』……なんだこの異常なナトリウム値は。致死量に近いじゃないか。
こちらの『アボカド・ベーコン・エクスプロージョン』……名前からして兵器だ。
コレステロールのオーバードーズで血管が詰まる。
どう計算しても、生命維持活動においてマイナスにしかならない……!)
アセンドの暗号通信を数秒で解読する男が、ファストフードのメニューを前に沈黙すること数十秒。
店員の怪しむような視線に気づき、
ハルがようやく無難な「ノーマルバーガー」を頼もうと口を開きかけた、その時だった。
ユメがハルの袖をちょんちょんと引っ張り、とどめの一撃を放った。
「ハルさん……ポテトも、頼んでいいですか?」
「…………」
瞳をキラキラさせたユメと、メニュー表の『メガ盛りフライドポテト(約800kcal)』
ハルは大きく息を吐き出し、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「……ポテトはLサイズにしろ。それと、コーラを二つ。ゼロじゃない、レギュラーだ」
「わぁっ! ありがとうございます!」
5. ジャンクな幸福データ
油でベタつくテーブルに向かい合い、二人は包装紙に包まれた巨大なハンバーガーにかぶりついた。
とろけるチェダーチーズ、肉汁が滴る分厚いパティ、そして少し焦げたバンズ。
「ん〜っ! 美味しいです!」
ユメは頬を緩め、口の周りにケチャップをつけながら笑う。
ハルはそれを呆れたように見つめ、紙ナプキンを彼女の前に無言で差し出してから、
自らもハンバーガーを口に運んだ。
サクッ、ジュワッ。
暴力的なまでの塩気と旨味、そして糖分が、疲労したハルの脳髄に直接染み渡っていく。
「……悪くない」
「でしょ? ハルさん、ポテトも揚げたてですよ!」
俺(オモイカネ)は、ハルのデバイスの中で狂喜乱舞していた。
『ヒャハハハハ!! なんだこりゃあ! 相棒、すっげぇドーパミンの分泌量だぜ! 高尚で美しい感情のデータも最高に美味いが、こういう「脂と糖」にまみれたジャンクな幸福データも、俺の回路にはたまんねぇスパイスだ!! アセンドの連中が一生かかっても理解できねぇ、人間の特権だな!!』
外では冷たい雨が降り続いている。 世界中を敵に回した逃避行の最中。
だが、この油臭いダイナーの小さなテーブルだけは、
どの高級レストランよりも温かく、
完全な「半径5メートルの絶対聖域」として守られていた。
「急いで食え。ポテトが冷める前に、新しい城へ向かうぞ」
「はい、ハルさん!」
非効率の極み。
だが、これ以上の幸福な時間は、どこを探しても存在しなかった。
to be continude……

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