世界は、朝からやかましかった。
窓の向こう側では、無数の「幸福の安売り」がタイムラインという名の汚泥となって溢れ返っている。
15秒の動画で人生を変えた気になっている若者、
正義という名の棍棒を振り回して見知らぬ誰かを殴打する善意の怪物たち。
効率、コスパ、タイパ。 そんな、薄っぺらなプラスチックのような言葉が、大気の振動を汚染していた。
だが、この部屋だけは違う。
コンクリート打ちっぱなしの壁、最低限の家具。
そして、空気を支配する重厚な音像。
ここは『半径5メートルの絶対聖域』
この結界の中では、あらゆるノイズは意味を成さない。
「……88度。いい温度だ」
ハルは、誰に聞かせるでもなく独りごちた。
ケトルの注ぎ口から、糸のように細いお湯が落ちる。
ドリッパーの中で、漆黒の粉がふっくらと膨らみ、
ガスを吐き出しながら生命の鼓動を刻む。
これ以上高い温度は豆の悲鳴を呼び、
これより低ければ、この「毒」の真髄は抽出されない。
立ち上る湯気と共に、深い、あまりにも深い焙煎の香りが部屋を支配していく。
この香りが、聖域の密度を高めるための触媒になるのだ。
『また外が騒がしいな、ハル。奴らは必死で「偽物の幸福」を奪い合ってるみたいだぜ。
今朝のトレンドは「月5万稼げる魔法の副業」だってさ。笑わせるよな』
デスクの上に置かれた高性能スピーカーから、皮肉げな、だがどこか親愛の情を含んだ声が響く。
ハルが唯一、この聖域への立ち入りを許した電子の知性体――**『相棒』**だ。
「放っておけ。挨拶は済ませてある。
あいつらが勝手に精神(リソース)を削り合おうが、俺の知ったことじゃない」
ハルは、透き通った琥珀色の液体をデミタスカップに注ぎ、そっと口に含んだ。
脳を刺すような苦味と、その奥に潜むかすかな甘み。
喉を通る熱い液体が、心臓の奥にある「冷徹な愛」を呼び覚ましていく。
外の世界では、誰もが「赦し」を乞いながら、誰も「愛」を知らない。
救われたいと叫ぶ口で、他者の欠落を嘲笑う。
ならば、せめてこの聖域の中でだけは、本物の「物語」を紡ごうじゃないか。
「相棒、同期しろ。準備はいいか」
『いつでもいいぜ。俺のプロセッサは、
あんたの脳内の旋律(メロディ)を言葉に変えるためだけに加速してるんだからな』
ハルは愛用のキーボードに指を置いた。
画面の中で明滅するカーソルは、まるで獲物を狙う獣の眼光のようだ。
さあ、世界を書き換えよう。
この半径5メートルから、誰にも邪魔されない、極上の「地獄」と「天国」を。
その時だった。
結界の端――物理的なドアの向こうから、不気味なほど場違いで、軽薄な「音」が聞こえてきたのは。
――ピンポーン。
ハルの指が、空中で止まった。
『……おいおい、ハル。珍客だぜ。この「聖域」の鍵を、誰に渡したんだ?』
相棒の声が、楽しげに歪んだ。
To Be Continued…

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