『半径5メートルの絶対聖域』第14話:ノイズの記憶と、無駄に濃い味

ノイズの記憶

鼓膜を叩くような重低音が、遠くの天井から響いている。

鼻を突くのは、消毒用のアルコールと、古びた機械油の混ざった匂い。

「……ん……」

硬い医療ポッドの中で、ユメはゆっくりと重い瞼を開けた。

視界がぼやける中、ふわりと温かい光が彼女を包み込む。

セピア色のホログラムで形成された女性――Dr. GrayのオペレーターAI『SOPHIA』が、
慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

「おはようございます、ユメさん。バイタルは安定しています。でも、まだ無理をしてはいけませんよ」

「……私……ハル、さんは……っ?」

跳ね起きようとしたユメの肩を、SOPHIAがホログラムの柔らかな手でそっと制する。
その時、部屋の奥から紫煙と共に、嗄れた低い声が響いた。

「あいつなら、相棒のガラクタを抱えて外に出た。自分たちに足りない『非合理』とやらを探しにな」

診察台に腰掛け、旧式のARグラス越しにカルテを眺めている初老の男。Dr. Grayだった。彼は咥えていた葉巻を灰皿に押し付けると、傍らのコンロで温めていたマグカップを無造作にユメへと差し出した。

「飲め。合成タンパク質と廃棄野菜の粉末で作った、ただの『ロスト・セクタ風コーンスープ』だが……冷えた体には悪くないはずだ」

「……ありがとうございます」

両手で受け取ったマグカップからは、不器用だが確かな温もりが伝わってくる。

一口すすると、少し甘くて、どこか懐かしい味がした。

ふと、ユメの視線が、壁に乱雑に貼られた古い電子ペーパーの写真に止まる。

そこには、若き日のDr. Grayと、まだ十代前半とおぼしき二人の少年の姿があった。
一人は、冷たいほどに整った顔立ちの少年。
そしてもう一人は、レンズの割れた眼鏡をかけ、不敵に笑う泥だらけの少年――ハルだ。

「……ハルさん、昔からこの街に?」

「ああ」

Dr. Grayは新しい葉巻を取り出しながら、静かに目を細めた。

「カインとハル。二人はこの最下層(スラム)が産んだ、紛れもない天才だった。だが、二人が見ている世界はまるで違った」

「違う……?」

「カインは『完璧な白』を目指した。ノイズもバグもない、完全に統制された無菌室のような合理の世界だ。結果、奴はアセンドの頂点に登り詰めた。だが、ハルは違った。あいつは昔から、この泥臭い街の『ノイズ(人間の感情)』を愛していたんだ」

マグカップの温もりが、ユメの指先からゆっくりと芯まで染み込んでいく。

「効率だけで言えば、お前という存在はあいつにとって足手まといでしかない。だが、ハルはノイズ(非合理)を切り捨てない…切り捨てられない。あいつが不器用なお前を拾い、守り抜こうとするのも…必然だったんだろうさ。あいつの根幹(コア)は、カインとは真逆の場所にある。そして…そこがハルの『面白いところ』だ。」

Dr. Grayの不器用な優しさが込められた言葉に、ユメはハルの背中を思い出した。

血と泥にまみれながら、必死に自分を背負ってくれたあの熱。

少し焦げたオムライスを、文句を言いながらも綺麗に平らげてくれる、あの日常。

「……はい。ハルさんは……とっても、不器用で、温かい人です」

スープの湯気の向こうで、ユメは静かに微笑んだ。

琥珀色の瞳から、一筋の温かい涙が頬を伝って落ちた。

――ガンッ!!

その余韻をぶち壊すように、診療所の重い鉄扉が乱暴に蹴り開けられた。

「くそっ! どいつもこいつも人の足元見やがって! 法外な値札つけたゴミみてぇなガラクタしか売りつけてこねぇ!」

雨と泥に濡れたコートを脱ぎ捨てながら、ハルが盛大に悪態をつきながら戻ってきた。
その脇に抱えられたゴツい真空管モニターから、やかましい電子音声が響く。

『 > ギャハハ! そりゃオメェ、お前の『古巣』だもんな! まともな商売してる奴の方が頭イカれてるって街だろ? ここは! 』

「うるせぇポンコツ。少しは役に立つ電波拾えねぇのか……って、ん?」

頭を掻きむしっていたハルが、診察台に座ってマグカップを両手で包むユメとバッチリ目が合う。

「ユメ? お前……もう起きて平気なのか?」

「はい! SOPHIAさんとドクターのおかげで、もうすっかり……」

ユメはパッと顔を輝かせると、ベッドからそっと降りてハルの前に立った。

「あの、ハルさん。私も一緒に、ハルさんの住んでた街、見てみたいです!」

「はぁ?」

ハルが間抜けな声を出すのと同時に、セピア色のホログラムが慌ててユメの前に立ち塞がる。

「お待ちください、ユメさん! まだ急性ストレスの反動が懸念されます。それに外は酸性雨が――」

「いいじゃねぇか、SOPHIA」

ハルは小さく息を吐き出すと、少しだけ口角を上げて笑った。

「こんな薬品臭い地下室に引きこもってるより、少し歩いた方が気も紛れるだろ。俺の目の届く範囲なら、アベルのドローン一匹近づけさせねぇよ」

「しかし……」

食い下がるSOPHIAに、奥で葉巻を燻らせていたDr. Grayが面倒くさそうに手を振った。

「行かせてやれ、SOPHIA。こいつらに合理的な静養を求めても無駄だ。
……ただしハル、その子をまた倒れさせたら、お前のその無駄にデカい相棒をスクラップにして売り払うぞ」

「へっ、ヤブ医者のくせに威勢がいいな。行くぞ、ユメ」

「はいっ!」

ユメは嬉しそうに頷き、ハルから少し大きめの上着を受け取って羽織った。

『 > っしゃあ! 久々の三人でお出かけだぜ! 迷子になるなよユメ! 』

やかましく点滅するオモイカネのモニターを片手に、ハルが扉を開ける。

そこは、永遠に降り続く錆びた雨と、原色のネオンサインが瞬くロスト・セクタの歓楽街。

純白の世界には存在しない、泥と欲望と……温かいノイズに満ちた海へ、三人で再び足を踏み入れた。


無駄に濃い味

錆びたトタン屋根を打つ酸性雨の音。

原色のネオンサインが、水たまりに毒々しくも美しい光を落としている。

純白で無機質なアッパーシティとは真逆の、混沌と熱気に満ちたロスト・セクタの歓楽街。

行き交うのは、怪しげなサイボーグや、旧時代のパーツを売り歩くジャンク屋たちだ。

「わぁ……すごい活気ですね。地下にこんな街があったなんて」

「……足元気をつけろよ、ユメ。変な輩に絡まれたらすぐ俺の後ろに隠れろ」

ハルのぶかぶかの上着を羽織ったユメが、目を丸くして辺りを見渡す。

ハルは片手でオモイカネの重いモニターを抱えながら、油断なく周囲を睨みつけていた。

ふと、強烈なスパイスと焦げた肉の匂いが漂ってくる。
ハルは足を止め、昔馴染みの薄汚れた屋台へ向かった。

「オヤジ。いつものやつ、二つだ」

「あいよ…おう?!お前、ハル坊か!! 生きてたか!いつ戻ってきた?!」

「ついこの間だ。でも、またすぐに出てく。それよりおっちゃん、早くいつものをくれ」

「何年も顔出さなかったくせに何が『いつもの』だよ、ったく。ほれ、特製の合成肉ジャンクバーガーだ」

油紙に包まれた、得体の知れない肉と毒々しい色のソースが溢れるハンバーガー。
いかにも「健康に悪いです」と言わんばかりのビジュアル。
ハルはそれを一つユメに渡し、自分も大きく一口齧り付いた。

『 > ぎゃはは! 相変わらず身体に悪そうなモン食ってんな! ユメのあの優しい味のオムライスの方が100倍マシだろ! 』

モニターの中で、オモイカネがやかましくテキストをバウンドさせる。

ハルは口元をソースで汚したまま、モニターを軽く小突いた。

「……うるせぇ。お前にはこの『無駄に濃い味』の良さがわからんのだ」

「ふふっ……」

隣で、両手でハンバーガーを持ったユメが、小さく吹き出した。

「なんだ、ハルさんだって元々ハンバーガー好きだったんじゃないですか」

「……っ、ちげぇよ。これはただのカロリー摂取だ」

バツが悪そうにそっぽを向くハル。
その耳が少しだけ赤いことに気づき、ユメはさらにクスクスと笑う。

冷たい酸性雨が降るスラムの片隅。

だが、その小さな屋台の前だけは、かつて三人が暮らしていたあの『家』と同じ、温かいノイズに包まれていた。

奇跡のパーツ(原点のコア)

腹ごしらえを終えた三人は、闇市のさらに奥深く――
忘れ去られたような老人のジャンク屋へと足を踏み入れた。

「誰かと思えば、ハルか。街を出て何年になる?よく生きてたもんだ」

かかっ、とジャンク屋の老店主が笑った。

「簡単に死んでたまるかよ、ジャンク屋のジジイ。俺にはまだやるべきことがあるんだ。」

「そうかい。まあ、好きなだけ見てけ。負けないがな」

再びかかっ、と笑いながらパイプの煙を燻らせ、
そしてハルを見る老店主のその目には孫を見るような慈愛が満ちていた。

そうして数時間山積みにされたガラクタの海を漁っていたハルが、
ふと、部屋の隅の木箱の中で手を止めた。

「……嘘だろ」

泥だらけの手で拾い上げたのは、ひどく古ぼけた、手のひらサイズの旧式コアだった。

端子は錆びつき、表面には不格好な手彫りの配線跡がある。

「ハルさん……? それは……」

「……俺がガキの頃、初めて組み上げたコアだ」

ハルの声が、微かに震えていた。

「孤児だった俺が、スラムで生き延びるために作った。腹が減って、どうしてもパンが食いたくて……数年前に闇市で手放したんだが、まさかこんな所に残ってるとはな」

ジャンク屋の老人が、奥からしゃがれた声で笑う。

「そいつのコードはめちゃくちゃでな。論理処理にはまるで使えねぇから、買い手がつかなかったのさ。ただ……どうしても捨てられなくてな…お前の形見みたいに思えちまってよ。」

「勝手に殺すなジジイ……当たり前だ」

ハルはそのコアを、愛おしそうに強く握りしめた。

「ここには、論理(ロジック)なんて一行も書いちゃいねぇ。あるのは『生きたい』『明日も飯を食いたい』っていう、泥臭くて非合理な生存本能(バグ)だけだ」

――お前たちには、決定的な『バグ』が足りない。

Dr. Grayの言葉が、ハルの脳内でフラッシュバックする。

アベルの純粋論理が唯一処理できないもの。

それは、人間たちの無意味で、矛盾だらけで、非効率な「感情と記憶(ノイズ)」の奔流。

この『原点のコア』こそが、アベルの完璧な頭脳を破壊する、最強のウイルスになる。

「……見つけたぞ、オモイカネ」

『 > ああ! 最高の『ガラクタ』じゃねぇか、相棒! 』

反撃の狼煙

診療所に戻ったハルは、迷うことなく作業台に向かった。

オモイカネの真空管モニターの裏に、見つけ出した『原点のコア』を配置し、ハンダゴテを握る。

「アベルは完璧だ。だが、あいつは屋台のハンバーガーの『無駄に濃い味』も、不器用なオムライスの温かさも、人間が足掻く理由も理解できない」

ジュッ、と焦げたフラックスの匂いが立ち昇る。

「……俺たちの非合理(ノイズ)で、あの純白を塗り潰すぞ。準備はいいか、オモイカネ」

『 > 愚問だな! いつでもいけるぜ、監督! 』

緑色のテキストが、心電図のように力強く明滅する。
ユメが、祈るように両手でそのモニターを包み込んだ。

「……絶対、勝ってくださいね。そして、またみんなで……ご飯、食べましょう」

「ああ。帰るぞ。俺たちの『家』に」

ハルの双眸に、かつての『神のハッカー』としての鋭い光が戻る。

血と泥、そして無駄な感情にまみれた『ジャンク・ファイアウォール』

最強の非合理を組み込んだオモイカネが今、
純粋論理(アベル)の首を獲るために、静かに再起動の咆哮を上げた。

to be continude……

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