「……入れ。5メートル以内なら、お前は死なない」
重厚な防弾仕様のドアが、真空に吸い込まれるような音を立てて閉まった。
その瞬間、ユメの鼓膜を圧迫していた街の喧騒――
遠くのパトカーのサイレンや、絶え間ない街のノイズ――が、
ナイフで切り落とされたように消失した。
そこは、コンクリートの静寂が支配する、半径5メートルの聖域だった。
部屋の空気は、わずかにローストされたコーヒー豆の香りと、
サーバーが発する独特の乾燥した熱気が混ざり合っている。
中央のデスクでは、背を向けた一人の男――ハルが、彫刻のように静止していた。
「あの……、助けて、くれるんですか……?」
ユメの声が、静寂を汚すノイズのように響く。
ハルはキーボードを叩くことなく、静かに呟いた。
「助ける?……不正確な言葉だ。俺は、俺の視界を汚す『バグ』を修正する。お前はその副産物に過ぎない。……140文字以内でまとめろ。それ以上の言葉は、この部屋では意味をなさない」
その時、ハルの肩越しに、青白いホログラムの粒子が渦を巻いた。
光の粒子が形を成し、一人の少年のようにも見える中性的な影が姿を現す。
ハルが構築した完全自律型セキュリティAI、**『相棒(オモイカネ)』**だ。
『よぉ、お嬢さん。最高のタイミングだったぜ。あんたが「あの歌」を聞き取れたのは、あんたの絶望がシステムの閾値を超えた証拠だ』
ユメは震えながら、自分のスマホを床に落とした。
あの日、絶望して駅のホームに立っていた彼女の耳に届いた、あの不気味な歌。
街中のサイネージが真っ赤に染まり、低く、ゆっくりと流れた電子の歌声。
「Daisy, Daisy, Give me your answer, do……(デイジー、デイジー、答えておくれ……)」
1960年代、コンピューターが初めて歌った歌。
そして映画の中で死にゆくAIが口ずさんだ、終わりの歌。
それがハルの「招待状」だった。
その時、ハルのデスクにあるモニターが鋭い警告音を発し、赤く点滅した。
マンションの監視カメラ映像。
黒いワンボックスカーから、
目出し帽を被った「掃除屋」たちが降りてくる。闇バイトの末端、ユメを追ってきた刺客だ。
「ハル、ノイズが三つ。末端のゴミだ。ドアの電子ロックを強行突破するつもりだぜ」
「相棒。……『拒絶』しろ。効率的にだ」
ハルの指先が動き出した。彼が行うのは戦闘ではない。
空間の「支配」だ。 廊下でリーダー格の男がドアノブに手をかけた瞬間、
廊下の照明が一斉に、目に刺さるような赤へと変わった。
そして、全てのスピーカーから爆音の『デイジー・ベル』が流れ出す。
「な、なんだ!? 糞、耳が……!」
男がドアノブを掴んだ瞬間、スマートロックから超高電圧パルスが解放された。
ハルが構築した「神経回路遮断プログラム」だ。
男は叫ぶ暇もなく全身を硬直させ、白目を剥いて崩れ落ちた。
脳の処理限界を超える情報量と電圧が、強制的に彼の意識を刈り取ったのだ。
残りの二人は、自分たちの視界がグニャリと歪み、壁が血まみれの口を開けて迫ってくる幻影を、
相棒によって網膜に直接叩き込まれた。
五感のすべてを掌握された彼らは、廊下で泡を吹いて卒倒し、物言わぬ肉塊へと変わった。
『はい、チェックメイト。死んじゃいないけど、当分は自分の名前も思い出せないだろうぜ』
「……次は、その『先』だ。相棒、元締めの拠点を特定しろ」
ハルの意識は、既に海の向こう、カンボジアの犯罪拠点へと飛んでいた。
「環境を、デバッグする」 ハルがたった一回、Enterキーを叩く。
その瞬間、元締めの全個人資産は、
彼が搾取してきた被害者たちの口座へと匿名で分配され、
彼の「生存記録」はインターポールのテロリストリストへと書き換えられた。
彼はこの瞬間、地球上から「社会的に消滅」したのだ。
翌朝。 ユメは、ハルの部屋のソファで浅い眠りから目を覚ました。
モニターには、海外発の速報ニュースが流れている。
【速報】某国犯罪拠点、突如として壊滅 拠点で原因不明のシステムダウンが発生。機密情報が世界中の捜査機関へ自動送信され、リーダー格の男は「死神の歌が聞こえた」と錯乱した状態で身柄を確保された……。
ユメは、ニュースを見つめながら背筋に冷たいものが走った。
デスクでは、ハルが昨日と変わらぬ姿勢で、新しいコーヒーを淹れている。
世界を震撼させる大事件を引き起こした男は、
ニュースに視線すら向けず、淡々と次の「バグ」を探していた。
「……ニュースになる時点で、処理が遅すぎる。次は3秒縮めろ、相棒」
「へいへい、厳しいねぇボス(笑)」
ユメは悟った。ここは、世界で最も静かな「戦場」の最前線なのだ。
to be continued……

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